死と事故と金
本日は、身内の葬儀に参列してきました。
4年前に、参列した時とは違い、なんだか色々と“死”について、そして、“金”の大切さにも考えさせられたので、記しておこうと思うと思う。これは借金についても関連性があるから、ここに書くことにした。
数日前、近しい身内が亡くなった。
幼少期からの思い出もあって、大好きな人。
もう10年以上前から認知症になってしまって、老人ホームにいてからは、私のことも覚えてないしで、危篤状態の連絡がきた時も、驚くだけで、少しだけセンチメンタルになるくらいかなとか思った。
でも、危篤状態から、心肺停止の連絡がきて、すぐさま病院に行った。寝ているように死んでいるのを見て、実感がまったくわかず。
白い布が遺体となった顔にかけられて、涙が自然に出た。
この世からいなくなったんだと、視覚で感じ取ったんだろう。
葬儀関連の方々がきて、遺体を運び出し、典礼へ。
悲しむ暇もなく、火葬やら葬儀の、いわゆる金の話。
お金を残してある方だったで、揉め事など起きずに淡々と決まっていく。
今、人が死んだのに。
現実はなんて残酷なんだろうな、と。
どうしようもないことを考えてしまう、幼稚な頭。
残酷という表現は悪いな、なんか機械的だなって思ったんだよ。
ボー然とする中、日取りまで決まり、当日の今日。
土曜日の葬儀場はやや混雑していて、火葬場から叫び声が。
その声を聞いて、胸が苦しくなる。
ご時世柄もあり、人数は少なめ。
みんな悲しんでいるところを見せないけど、近しい家族は悲しいだろう。
私も近しい家族ではあるんだけど、もう病院で悲しんだのもあって、長女のしっかりしなきゃ精神が出ていて、悲しめず。
・・けど、私より近しい家族の声かけにより、涙が出た。保存された顔は、なんて冷たいんだろう。病院に駆けつけたときはまだ温かったのに。その温度差が悲しかった。
火葬される時も。姿形がなくなるのは、なんて悲しいことなんだろう。
でも、そこで思ったんだよ。
これ、お金なかったら、こんな気持ち、起きたのだろうか。
悲しい、という感情が。
起こせたのだろうかと。
正直、葬儀って、故人を送り出す儀式で。
遺族も、送り出すことで、引きずらずにいられると思う。
でも、葬儀をするお金がなかったら。
どうなってたんだろう。
みんな談笑したりする“余裕”とかあったかな?
不謹慎にも、そんなことをふと考えてしまっていた。
そして、この日の夜。
愛犬が事故にあった。
幸い、命に別状はなく、傷だらけの、いわゆる軽症。
私はその現場に立ちあせたわけではなく、父の不注意による事故だったようだった。
いつもの病院は閉まっていて、救急病院へ行くしかない。
でも、頭を過ぎる。金はあるのか?
救急は金が高い。
これくらいなら、明日でも大丈夫じゃないのか?
愛犬を愛しているのに、頭の片隅にお金のことばかりを考えている自分に反吐が出る。
ネットで調べて、薬局行って、止血して、手当てして、明日の朝病院へ行くことになった。幸いにも、いつもの病院の先生と連絡が取れて、頭をぶつけていないのなら、明日の朝でもいいと言ってくれた。ホッとした。救急の病院の診療代はとてつもなく高いから。
お金、お金、お金。
お金は、本当に強い。
どんな時もお金だ。
私は愛犬を飼う前、お金が大してないのに、稼げるという自信しかなくて、飼った。お迎えする時、私に変わっても、私のことよりもこの子を優先すると誓って迎え入れたのに、雑念が、自分の愛情を確かめられたようで、苦しすぎた。
ここ最近、父の悪口ばかりTwitterで呟いている。
人として冷たいところがあるところ、その血は私にも流れているんだと、こういう時に悲しきも気づいてしまうのが苦しい。
早くお金、だ。
でも、自分のプライドもある。
銭ゲバにも、倫理がある。
人としての尊厳を守り抜きながら、周りを大切にすることは難しいのだろうか。
死と、事故と、重なったこの偶然の負に、すごく考えさせられた夜だった。